■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
嫌儲で仲間「ごっこ」してるネット部落民って笑えるよね。どんだけしょうもない人生送ってんですか?笑
- 1 :ぼくは感情のない人形 ◆r.W5MpcGNo :2012/05/13(日) 03:07:20.00 ID:eUU/+Rwm0 ?2BP(1000)
-
ぼくがたぶんネットにはまったのは7年前だ。
そのころはまだツイッターやブログは流行っておらず、
「個人サイト」や「日記」というものがアングラ的な流行だった。
いくつもの個人サイトのランキングなどがカテゴリーごとに存在し、
それに登録することで人が来て、つながりが増える。そんな感じだった
そうした水面下の世界で「個人」を全面に出したサイトがたくさんあった。
匿名掲示板の固定を嫌う風潮にはない「個性」を追及する姿勢がたくさんあった。
だから面白い人間のサイトは人気がでるし、類似性をもった人間同士のつながりも増える。
詩や創作が多く、今のネット文化より文化らしい文化だった
そういう「場」で個性の共感し合ったものが、交流する。
個人的にメールのやりとりを交わし、仲良くなり実際に会った人間すらいる。
だけど、そうした「比較的強固」な世界ですら所詮ネットのつながりはネットのそれでしかく、一時的な儚いものでしかなかった
環境の変化、スタイルの変化、そうしたものによって、自己というものは生成変化しつづけ、
他人もまた同じくして変わり、関係は反省的対象とされ、飛沫のように霧散する。
現実世界の人間のつながりですらあやういものなのに、匿名的世界の「信頼感」なんて、聞いてて笑いがこみあげるほどなんですよ
ぼくはネット部落民たちよりもネットにはまっていた度合いは深い。
個人サイトのようなものまで自主的に0からプログラムしたことも何度かある。
だから嫌儲民のような薄っぺらい仲間ごっこ、ああいうものを見ていると、ほんとうに虚しくなってくる。
「信頼」を構築する以前の実在のない幻想的な「信頼」
そんなゴミみたいな透明ビニールのような無に等しい「信頼」を前提として、
板のローカルルールがどうとか、固定はつけるなとか、自己主張はするなとかいって、
個人を等閃視して得る信頼のどこに信頼の要素があるのだろう。
彼らはそんなものを根拠に、怒ったり、悲しんだり、喜んだりする。虚しい帰属意識
https://twitter.com/#!/lost_feeling
180 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
★スマホ版★
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver 05.05 2023/04/05 Walang Kapalit ★
FOX ★